con amore

若武和臣という英雄



KZ'Dが好きな理由のひとつに、それぞれがそれぞれに抱いている人物像の誤差を感じられる所というのがある。

人をどう見るかというのは、往々にして、見ている相手ではなく自分自身の心が映し出されるものだと思う。

Twitterでも書いたのだが、その点において小塚和彦という子は特別不思議だ。
陳腐な言葉を使うと、尊い。

『断層の森』を読んだ時、最初に抱いた感想は 若武が普通の子だったな ということだった。
その前に読んだ『桜坂』と『いつの日か』で見た若武は、私がそれまで彩を通して見ては感じていた 若武という英雄らしさ を更に強く感じるものであったから、小塚から見た若武のごくごく普通の少年らしさに新鮮さを覚えた。


そんな私から見た、若武和臣という英雄のはなし。



若武と英雄と、上杉と黒木



『桜坂は罪を抱える』と『いつの日か伝説になる』は主に上杉と黒木目線で書かれている。上杉と黒木を通して見る若武和臣という男は、まさに、子供のような英雄だった。

事件ノートシリーズで彩にも度々思われているように、若武和臣という男の子は英雄によく似ている。普段は、いかにもガキ!と言いたくなるようなこともする男子中学生なのだが、なぜだか英雄そのもののに思える時が定期的にある。そこが、若武和臣という男の最大の魅力であろう。

誰もが持ち続けたいと思いつつも、外の風に吹かれているうちに次第に失われてしまう、生まれたばかりの真っ直ぐな魂の在り方が、若武の中にはずっと当たり前のように生きている。

その、生まれたばかりの魂の純粋さが最も早くに失われた者。それが、上杉と黒木なのだと思う。
二人は、まだ幼いうちから、大人として扱われてきた。はて、大人とは何か。急に哲学的になってしまったが、ここではひとまずこういうことにする。


世の中の失望に慣れること


実はこれは、ニュースがいつまでも苦手で慣れることができない理由を聞かれて「毎回、世の中に失望するから」と答えた私に、母が「子供だね」と嘲笑だか微笑だか分からない顔で言ってきた時に思ったことだ。
世の中は、存外、人のために回っていない。ニュースで見る人々は、人のためという意識を失った人ばかりだった。
そんな世の中に失望することに慣れるのが大人ならば、世の中に期待し続けては傷つき 誰かのために在る世界を望むことは確かに子供かもしれなかった。

黒木と上杉は、そういう大人になるのが早かったのだと思う。早いうちから、世の中に溢れる失望の一端に触れ、そういう風に吹かれてどう立っていようか考えて生きてきた。
誰かのためではなくその人自身のために吹く風の中で、自分の身を守る方法。それは結局のところ、自分も自分自身のために風を吹かせて動くことだ。人のためを装って自分のために動くようになった時、人はきっと、純粋だった子供の魂を少しずつ侵食していっている。

単純でごくわかりやすいはずの若武の心を読めなかったのは、人のために何かをするという発想が和典の頭になかったからだった。

桜坂 P209


いや、2人の場合はそう生きるしかなかったと言うべきだろうか。母と研究所という、常に自分の首根っこを掴んでいる存在に、心をも縛られて。

聡すぎる二人には、心の自由を求める二人には、ありのままの魂で生きている若武が青臭くて子供みたいで、それでいて、どうしようもなく眩しいだろうと思う。
首根っこを掴まれ真っ直ぐ立ち向かえないままに勝手に傷つく自分たちの隣で、「俺は若武和臣だ!」「俺を信じろ、見てろ!」と自分の心のままに進み、そうして受けた傷を手に、「どうだ、これが俺だ」と笑う男。

周囲の人間がどれほどうんざりし、もうやめろよと怒鳴り捲っても決して諦めない、自分の意志がある限り突き進んでいく、それが若武だった。

桜坂 P109

人のためにと思いながらも、結局は、人のためにと言う自分で在りたい二人に対して、ただその時その人のために人を救おうとする若武。その純粋さはどれほど羨ましくて、輝かしいだろう。


中学生なら、誰でも英雄になれるはずだと和典は思う。中学という時期には、その必要十分条件が成立している。

~~~ どんな事になっても餓死する心配はない。

~~~ 自分の人生に傷をつけてもまだ充分取り戻せる位置にいる。

だから他人のために自分がゼロになるまで、いやマイナスになるまで注ぎこめるのだ。

桜坂 P210

『桜坂』で、上杉は、英雄になりたがった。
だが、英雄になるためにまず自分の死と自分の未来を心配する上杉は、やはり、英雄にはなれないのだ。
上杉の 救う には他者のその時と自分の未来がかけられている。

若武が、浮かされたようにつぶやいた。

「怒らないでやってよ。かわいそうだから。俺、何とかしたかったんだけど、たぶん力が足りなかったんだろうな。おまえなら何とかできるかも。してやってよ」

桜坂 P274

本物の英雄とはきっと、こういう者のことを言う。
他者のその時を、自分のその時で救おうとする男。


二人から見た若武は、自分の心の奥の方で燻って時に燃え上がる 英雄になりたい、英雄になる資格がほしい という思いの 一歩先にいる存在 のような気がする。



若武の知性、英雄の知性



若武は、その奔放さと子供らしさゆえに、軽く扱われがちな人だと思う。
彼が持つ知性は、黒木・砂原・翼のような分かりやすく理性的かつ器用な知性ではなく、上杉・小塚・忍のような専門的でチャート的に鋭利な知性でもない。
言ってしまえば、運も心も全て諸共その場を奪える知性。上手く言葉にするのが難しいのだけれど…どうにか私の語彙で捻り出して名付けるならば、掌握の知性、だろうか…?

若武が軽く見られがちな理由はこの知性の特徴にあると思う。掌握とはつまり、相手が必要なのだ。
詐欺師とも揶揄される口の達者さ、英雄に相応しい運の良さ、小柄な体から溢れる存在感。そのどれもが相手がいて成り立ち、相手がどんな人であるかによってどこまで発揮されるかが変わってくる。



昔、英雄というのはどうやって生まれるか考えたことがある。伝記を読み漁っていた小学生の頃だ。
ナポレオン、ジャンヌ・ダルク、新島八重、坂本龍馬…。彼らはなぜ、英雄と呼ばれるのだろう、と不思議だった。革命家でもいいというのに、なぜ彼らの代名詞は英雄なのだろう? そもそも、何か誰かを救うための争いに命を懸けた者はみな英雄であるべきではないか?
何が英雄なのかを分かっていないままに、それでも、伝記の中の彼らと似た何かを若武和臣という男の子の雰囲気から受け取っていた。

おそらく、英雄と呼ばれる者が持っているのは誰かを救いたい意志でも、誰かを救える力でもない。それらは革命家も持っているものだから。英雄が持っている力は、きっと、期待させる力 だ。実際に救ってくれるかどうかはわからない、だとしても救ってくれるかもしれない。その不確定な期待を何度でもさせてしまうカリスマ性、それが英雄と呼ばれる者の持つ力なのだと思う。

争いに命を懸けた兵士たちが名も無き勇者とされ、裏を率いた参謀たちが影の立役者とされ、その中で主人公として語り継がれることの多い英雄たち。
それは、その力に期待したことを鮮明に覚えている人が多いからなのだろう。きっと、善し悪しは関係なく、大なり小なり多くの人がその英雄の力に魅了されていた。

そう。つまり、相手が若武の知性を認めていればいるほど、掌握されていく。


最初に『桜坂』を読んだ時、自分の想像以上に上杉と黒木は若武を高く評価しているなと感じて面白かった。それまで私が彩を通して見ていた若武は、どこか他のメンバーほど知性を感じなかったからだ。奔放さの方が強かった。子供の英雄 でしかなかった。
それが、上杉と黒木の目には 子供のような英雄 として映っている。
思うに、彩は上杉と黒木ほどは若武の知性に魅了されていないのだ。おそらくは彩自身もまた似たような知性を持っていて、上杉と黒木はこの知性を持ち得ないから。


ちなみに。
個人的には、彩も同じような知性の持ち主だと思っている。言葉の扱いが上手く、自分なりの意志があり、そのために何かをしようとする行動力のある彩は意外と簡単に人を虜にするし、存在感が強い時は小さい割にかなり強い。が、それが刺さるかどうかは人による。
彼女の場合は、経験値が上がればあるいは黒木のような強かさが身につくかもしれないと感じることもあったけれど。
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